191「看護婦さ〜ん」

7.7.wed./2010

★ニホン州?

男女雇用機会均等法とかで、看護婦さんのことを看護師なんて呼ぶようになってしまい「無味乾燥なおもろない世の中やなぁ」とため息の昨今・・・無味乾燥といえば、飲酒運転や駐禁の異常な厳罰化、やたら横文字いれる会話等々ふくめてやけど。
先日もテレビでやたら「スキル、スキル」連発の文化人がいて、これはわざわざ英語で言うほどの言葉でもないやろと耳障りで耳障りで。

20年ほど前に、「こういう外来語を駆使することで話に箔がつくと思っているエセ文化人が多い」と苦言を呈した人がいたけれど、いまはもう当たり前。
地下鉄をメトロと名づけたり、パパ、ママとええ年した人が幼児語喋ったり、経営最高責任者をCEOと呼んだり、「日本アカデミー賞」なんて猿真似そのものの賞を創設したり、ここはいったいどこの国やねん・・・米国には日本を州のひとつと思い込んでいる子供がいるとかつて聞いたことがある・・・。

今朝の新聞でも作家の曽野綾子さんが選挙戦に関するコラムで次のように述べていた。
「誰もが信じられない約束をする。『マニフェスト』だの『アジェンダ』だの、日本人にはその言葉の意味が分からない人がたくさんいるのを利用しているのだろう」と。
我輩など「アジェンダ」なんて当初、チリの大統領の名?と思った。・・・暗殺されたその人はアジェンデだった・・・。

ま、曽野さんの言いたかったのは、聖書に『一切誓いを立ててはならない』という一節があり、人間には本来立てた誓いを実行する力などないのに、立候補者も政党もそんな原始的な真実さえも気づかず「お約束いたします」と叫んでいることに対する苦言の文章やったんやけど・・・でもこのマタイによる福音書の一節はタメになった。誓いなんかもう信用せえへん(女のやけど)・・・。

★婦と師

で、数日前の産経新聞で次のことを知ったわけ・・・
「国語逍遥」という記事で、副題が「言葉にこもる豊かな情感」
「看護婦さん」と題した東京発行版掲載の記者コラムに、読者から「『看護師』というべきだ」との「ご指摘を頂戴した」というのだ。
こういうイチャモンつけるヒマ人おるんやね。おるんや。
映画「クライマーズ・ハイ」でも、「こういう投稿者は常連だ」と新聞社の社員がグチる場面があったけれど、今回の記事の筆者もうんざりやったんやろな。

筆者は、「『看護婦』は人々のさまざまな好感によって彫琢された(日本語もむづかしいわ。辞書では彫琢って「文章を練ること」と)、余情豊かな言葉で、響きも実によい」と述べ、コラムの記者は、父の臨終まで精一杯に尽くしてくれた思いから「実感のこもる言葉としてあえて『看護婦さん』を使ったと文中で説明していた」と援護かつ補足してる(のに、わざわざ投稿してくるんやから!と筆者も思ったやろな)

で、平成11年の、求人募集で男女の別を問うてはならぬという均等法施行で「看護婦募集」が「看護婦・士募集」に改められ、14年の保健師助産師看護師法で「看護師」が一気に定着していったらしい。

「これらはあくまで法律上の話で、厳密に人事採用や資格に言及するような場合を除いては」、『看護婦』の使用はなんら制限されていない、ということ。
「もちろん、『看護師』と言ってもよいわけで、使い分けはひとえに個人の嗜好の問題」と筆者は述べている。
法律上の呼称「教諭」を「先生」、「警察官」を「おまわりさん」と呼んだりするのと同じこと、と。う〜ん、なるほど、でした。

筆者はいちゃもんヒマ人意識したのか、さらに補足。
いわく「女偏に帚(ほうき)と書く『婦』は女性に家事を押しつける差別字だと主張する向きもなかにはあるかもしれない」(かもじゃなく、おるんや?予防策万全やな、この記事。ま、わしは家事押しつけて何悪いんや、のタイプやけど。どっちみち長生きすんのは女やねんから。
で、要約すると「婦」は「掃除とは無関係。神に仕える女性を表す高貴な字」なんですと(詳しく知りたい方は白川静「字統」参照)

結びの言葉。
「詞(ことば)は古きを慕ひ、心は新しきを求む」(藤原定家)
「長い年月にわたり人の心を種として育てられてきた言葉の数々には、有縁無縁の多くの人の情感や人生の機微に感応させる神通力のようなものがある。コラム子が『看護婦』にひかれたのも、そんな力のゆえではなかろうか」

ボクは看護婦さんそのものに惹かれるけど・・・。
いやいや、ミナミの畳屋町や笠屋町なんてかつての名称、復活させて欲しいわ・・・。みなさん、日本語を大切にしませうね。

「看護婦さ〜ん」完

<戻る>