350「さみしさのつれづれに〜」(後篇)

3.03.fri./2017

★徒労の自動販売機

若い頃は寂しがりだったように思う。
70年代初め、タバコの自動販売機が設置され始めた頃だ。
そういえば堺市内に住んでいたその当時、深夜に小銭かき集め、歩いて10分以上もかかるビルの一角、町内に初めて設置された販売機でタバコを買おうと出かけた。
で、さてさてと販売機に小銭入れるとなぜかパラパラと小銭が返却口に・・・ん?と戻った小銭見てみると五円玉ばかり?
自動販売機というシロモノには五円玉が使えぬと知った、人生初めての未知との遭遇。徒労に終わった自動販売機接触の夜であった・・・今思うとアホやん?

が、転んでもタダでは起きぬ我輩、とある劇団でのパントマイム試験でこの経緯を題材に演じ好評を博したというおまけの出来事もあったのだ。
話がそれてしまった、「寂しがり」の話だった・・・。

★片手に受話器・・・

その頃のことだけれどもこれまた深夜、部屋で一人酒あおりながら寂しさ募ると、電話の天気予報や時刻お知らせ録音テープの人声聞きながら酔いつぶれていたことも多々あったのだから。ま、その時の心もようが「サビしぃ〜!」だったわけで・・・。

あれから幾星霜・・・我輩の「寂しい」はどうなったんだろう?
いまや衰退する一方のタバコの自動販売機はこの町内でも同様、徒歩10分もかかる休業中のクリーニング屋店先に一台残っているだけという、過ぎゆく歴史を身をもって知る時代となってしまった。さらに、ネオンもコンビニもなく、クラクションの音も人の声さえも聞こえぬ山中の住宅街・・・喧騒満ちあふれていた墨丸で働いていた頃にくらべ文字通りすべてが隔絶、隔世、途絶の感。それも疾病のせいで心の整理もできぬままの急展開、急反転、急転直下の現況に陥って・・・。

食い詰め浪人ながら一応屋根の下で眠れ、危険ラインの体重50キロ下回らぬほどにはメシも食え(あいもかわらずの味覚障害で一日一食やけど)、面白本も読め、家族もいるわけで(ま、我が妻リ・フジンいらっしゃる時は息ひそめ部屋に潜んでるんだけど)・・・が、なぜかやりきれぬのだなぁ、これが。
ゼイタクな悩みといえばゼイタクなんではあるが・・・ん?で、これが「寂しい」のだろうか?

★「地獄行き列車」

十代の頃に読んだロバート・ブロック(映画「サイコ」原作者)の短編に「地獄行き列車」というのがある。この物語をなぜか最近よく思い起こす。

願い事をかなえてもらう代わりに魂を差し出すという、悪魔と取引した男は「次の機会に。次こそは。今度こそは」と・・・結局願い事果たさぬまま死の床についてしまい地獄行き列車に乗せられてしまう。
その列車、地獄に向かう与太者、酔っぱらい、売春婦たちで満席。
もう最後だと皆どんちゃん騒ぎ。男は思う。ああ、なんと楽しい夜であろうか!
男は使わなかった願い事をこの時使う。
「この旅が永遠に・・・」というような内容だったと思うのだが・・・はい、自己分析結果が自ずと判明しました?

★「寂しいないんか?」ではなく・・・

我輩にいま欠けているのは、この「地獄行き列車」の世界?
「寂しさ」などという青臭いものではなく、「享楽」のなさへの不満?
と記すとホンマに「アホ」で終わってしまうのでもう少し考えてみると、日々「寂しい」のではなく・・・病後の古傷痛むというこの季節、冬眠でもできれば幸いなれど動きが不活発となってしまうこの季節、生産的なことが何ひとつ手につかぬのが問題なのだ。
そう、脳は活発なれど我が半身が冬眠している、といったところか。
鬱々とした冬空同様、そんな非生産的な日々がただただ「虚しい」のである(働きモンの日本人や。女のヒモになどなれんタイプやん?)

・・・と格好つけてもしょせん疑似藤竜也、これがいったん酒場に入ると例の単純ネアカ大人にたちまち変貌、という体たらくで・・・結局「地獄行き列車」志望なんか?
今度友人に聞いてみよう、「お前、虚しいないんか?」と。

「さみしさのつれづれに〜」完

<戻る>